中17回 市川重雄

中17回 市川重雄

 平成18年は昭和に換算して81年となる。私の数え年も大正15年生れの81才であり昭和に換算した年と同じである。昭和15年のこと、従って私が数え年15才の時、当時の浜松一中(現浜松北高)の入試に2回目の失敗をした。(実は昭和14年に1回目の浜松一中の受験に失敗していた。)この2回目の受験の直前に鉄棒での「蹴上がり」に失敗して胸を強く打ち、小川接骨院(木戸町)に通院していた時、(もち論、受験に失敗してからも通院していた。)小川院長から「入試に失敗したそうだが、東京へ行くか?」と聞かれた。私も受験に2回も失敗し、失望していたので、浜松以外なら東京でもどこへでも行こうと決心し、小川先生にその旨お願いした。
 その小川先生の紹介で、先生の師である東京巣鴨の大(おお)先生の処へお願いに上った。大先生はよくできた方で、すぐ、ご自分の弟さんで神田の三崎町で医師をされている方にお話しをしてくださった。そしてその弟さんである先生も直ぐ地元の私学で大成中学校(旧制)へ紹介して下さり、そして入学を許可された。その大成中学の制服は、当時としては珍らしく背広で、服地も当時としては手に入りにくく、たまたま私の家が織布業をしていたので、製品の中からゴワゴワした白い布を黒く染め上げ、背広に仕立てていただいた。
 当時の小川先生と言い、東京巣鴨の大先生、神田の弟先生と言い、縁もゆかりもない私に与えていただいた御恩には衷心から感謝申し上げなければならない。そのご恩返しにと私は真剣に勉学に取り組んだ。おかげで、学校でも「開校以来の成績の良い生徒」と喜んで頂くほどの成績を収めることができ、「こんな良い成績の生徒が受験に2回も失敗したとは?」と学校でも不思議に思ったとまで言っていただいた。
 1学期も終ろうとした頃、浜松二中へ転校しないかとお話しして下さる方があり、東京に慣れかかっていた私も「もしこのまま東京に居て、東京の上級学校へと進めば、浜松の家へは帰ることもできなくなりはしないか。」と思い、この話しに乗った。

 そして浜松二中での編入試験の結果1年2組に編入された。当時担任だった佐藤喜由先生(故人)が「市川は東京のボロ中学では1番の成績だったと言うがここの学校ではそうはいかないよ。」と皆の前で言われた。私はこの言葉に刺激されて、一所懸命頑張った。そして学科も1番、剣道も3年生(現在の中学3年生)の時初段をいただき、文武両道に長けた生徒となることができた。そして実力試験もしばしば行われ、毎回1番だった。
 昭和16年12月8日私達が中学2年生の時太平洋戦争が勃発した。当時担任だった佐藤先生もやがて応召(戦地に行くこと)された。そして昭和17年4月私達は3年生となり担任は高柳勲先生(故人)となった。体の小さな先生だったが、声は大きく、熱心に指導して頂いた。
 昭和18年4月、4年生(現在の高校1年生に相当)になった時、当時連合艦隊司令長官だった山本五十六大将が南方の戦線で、戦死(昭和18年4月18日戦死、広報は一ヵ月おくれの5月)の報に私も愕然とした。
 「今、私は高校、大学(何れも旧制)へと進んでよいのだろうか?私の身はどうなろうとも国家の為に尽くさねば!」と軍人を志願し、受験しようと思った。それまでは、一高、東大(何れも旧制)受験を夢見ていた。その時最も試験期日が早かったのが海軍兵学校(江田島)だった。中学4年生(現高校1年生)から上級学校へ進学するのは仲々むずかしかった。

 試験は全国一斉に行われ、県内各一ヵ所の学校が試験会場となり、静岡県では、静岡市の静岡中学(現在の静岡高校)で行われた。私達「浜松二中4年生からは、脇本、岡野(旧姓鈴木)、と私の3名」は試験会場に近い長谷通り(静岡草深町)の長谷旅館に宿をとった。
 7月下旬、試験は、毎日午前、午後、各1科目で、その日の結果は翌日校舎の外壁に大きく張り出され、不合格者は毎日逐次墨で名前を消され、その場で帰って行った。1週間位の試験で、私と行動を共にした、脇本、岡野(鈴木)の3名は最後まで残り、最終の身体検査も合格した。
 然し「この結果の最終的合否は11月3日、明治節の祝日に3名そろって合格の通知を受けとった。もち論受持ちの高柳先生は大へん喜んで下さった。そして校長の六浦先生(故人)も開校以来のことと大へん喜んで下さり当時としては破格の記念写真を撮り、私達にそれぞれ署名入りで、贈呈して下さった。

 

前列中央左が六浦校長先生、右が担任の高柳先生、後列中央が私(市川)、左が岡野(鈴木)君、右が脇本君、前列左端が鈴木文夫君、右端が刑部君、この2 名も同じく4年生から陸軍士官学校へ合格

前列中央左が六浦校長先生、右が担任の高柳先生、後列中央が私(市川)、左が岡野(鈴木)君、右が脇本君、前列左端が鈴木文夫君、右端が刑部君、この2 名も同じく4年生から陸軍士官学校へ合格

 私の父は最初から「一人息子のお前が行かなくてもいいのではないか。」と私の兵学校行きに反対していたが私の合格の電報を見て、「お前がその気なら、反対しても仕方がない。賛成するしかない。どうかしっかりとご奉公して来なさい。」といい、当時長髪だった髪を床屋で坊主刈りにして帰って来た。その父を見て、私は、感涙にむせんだ。

 昭和18年12月1日、入校せよ。との通知を受け、いよいよ江田島行きとなり、11月20日江田島の指定されたクラブ(海軍兵学校では、昔から生徒に外出時、休養をとり、寛いだ家庭的雰囲気を味わわせるため民家と契約して借り上げていた。)に集合した。

 そして、今一度兵学校で最終の体力検査、身体検査が行われた。この検査で不合格になると、兵学校合格は取り消しとなり、そして郷里に帰される。帰される時の本人の気持ちを思うと何とも言えないものがあった。
 因みに、我われのクラスの募集人員は、3,300人、そして受験者は30倍の10万人であったときく。当時(戦時中)の国内の風潮の一端がうかがわれる。最終的に合格し、入校を許されて、一ヵ月の入校教育と言って、基本的な海軍の規律訓練と日常生活の躾教育を受けるわけで、姓名申告と称して、上級生の前で、自分の出身校、姓名を大声で申告させられ、それを何回も、声がかれるまで繰り返させられたり、階段の2段飛びと称して、階段を登る時、一段おきに駆け登る等思いもよらぬことばかり。
 1ヵ月の入校教育が終ってからの日常の訓練は戦局の悪化とともに益々厳しく、学科も、軍事学、普通学(数学、物理、化学、力学、英語等)も予定通り行われ、特に英語は当時敵性語として、全国的に廃止されたが、兵学校では益々力を入れて教育された。並行して、防空壕掘りも行われた。

 昭和20年8月6日広島にあの原子爆弾が投下された。その時我われは、兵学校の講堂で軍事学の潜水艦の講義を受けていた。
午前8時15分頃、水面に反射して天井がピカッと光り、数秒して、ドーンと地震のような衝撃を受けた。続いて空襲警報が発令され、防空壕へと急いだ。見上げると、はるか北方広島市の上空に、もくもくと「きのこ雲」が立ち昇っていた。皆、口々に「原子爆弾だ。」「いや大型爆弾だ。」と。或教官は「戦艦が大爆発した位の規模だ。」と言われた。
 8月15日、その日は、いかにも暑い日であった。校内放送で、「正午に重大発表があるので、全員、定時に千代田艦橋(旧海軍の戦艦“千代田”の艦橋をグランドに設置して、演台とした。)前に集合せよ。」と。そこで天皇陛下の玉音放送を聞いた。雑音がひどく聞き取りにくかった。皆口々に「いよいよ1億玉砕か」、「徹底抗戦か」と。そのうちに、海軍航空機が1機飛来し、ビラを撒き、「帝国海軍に降服なし、あくまでも抗戦あるのみ!!」と呼びかけた。これで、皆騒然となった。
 然し夜になって、生徒隊幹事(大学の学部長に相当する立場の教官)から「陛下は既にポツダム宣言を受諾された。生徒は軽挙、妄動を禁ずる。」と訓示され、我われも次第に緊張がほぐれていった。それからは、重要書類の焼却、武器類(小銃、拳銃、刀剣等)の集積、学校内の清掃、各自、故郷に向けての帰郷準備と忙しかった。

 8月22日、広島県の宇品港へ上陸した。そこで見たものは、原爆で被爆した人々を似の島(広島県)に送る夥しい担架の数であった。家々の屋根瓦はちょうど、鳥が羽根を広げたようにめくれあがっていた。広島駅は見る影もなく瓦礫と化していた。広島は今後50年は草木も生えないだろうと言われた。
 我われは貨物列車で、それぞれの故郷へと帰された。兵学校最後の1号生徒(最上級生徒)である我われ75期生は昭和20年10月1日付で、各県庁(静岡県は県議会議場)に出向き、卒業証書を頂いた。帰路についた我われは、静岡市内、浜松市内の見るも無残な瓦礫の山を見て、戦後復興の先頭に立って行かねばならないと固く心に誓った。(終)

海軍兵学校 [ Naval Academy ] 関連ページはここをクリックしてください。