鈴木康司さん(高18回)  荒地派の詩人の田村隆一氏に鎌倉で三十年前に会ったとき、「静岡県は、二番手のB級県のところがヨロシイ!」と賛美のお言葉を聞いて、浜松西高と似ているなと思っていた。
 僕の西高時代は各個人の特性を生かして磨く精神の風が吹いていて、飄々とした先生や生徒が多く存在し、その一人が僕だった。
人間は十八才で進むべき道が決定し、それからは肉づけ、補強の人生になってゆくのだと、つくづく思う。
 この西高時代に「僕は一生絵を描いていくだろう」と確信した訳だからありがたい。
 当時実存主義かぶれの同級生の友人が「浜松城近くに竹内仙人という人が道場を開いているので今から逢いに行きまいか」と出かけていくと、役者の宇野重吉を若くしたような白髪のお爺さんが四畳半の板の間道場に居て、名刺をくれた。それには、「聖徳太子剣法秘伝」と書いてあり、すぐさま僕等二人は竹内仙人の弟子?になってしまい、浜松城下の広場で、木刀を渡され素振りの稽古が始まった。

 「敵を打つときは愛をもって打て!」の精神で木刀を振り下ろす時「アイッ」と叫び、足はタコ足で自由自在にあちこち走り回る剣法なので、真剣になればなるほどかなりおかしかった。けれどかなり熱い竹内仙人の指導の下、真面目に励んでいると、何事かとまわりに見物人が集まっていた。
 ある日、同じく弟子になった相棒の部屋でシャンソンのジュリェット・グレーゴなどのレコードを聞きながらコ一ラを飲んでいると白い麻のスーツを着た竹内仙人が突然やって来て「今から十五分座禅」と言われてこれが一時問位に思えてシビレテしまった。

鈴木康司さん(高18回)  その後、竹内仙人は「君達さ、高校卒業後私の友人であるタイの皇太子経由でタイの山奥で(全世界に愛の鐘を打ち告げる塔)建設第一次派遣隊として送り出したいと思っているので考えてみてください」と告げて去っていった。
 (結局、僕等は卒業後東京へ向かったのだが)あの時僕等がタイに送り込まれていたら、どんな人生になっていったんだろうと考える。

スズキコージさんのプロフィール
創作絵本、画集、マンガ、映画や演劇のポスター、舞台装置や衣装、店の看板やマッチ箱、壁画など、幅広いジャンルで活躍中。
2007年浜松市より『浜松ゆかりの芸術家』として顕彰されている。

2008.08.09